#5 うちはイタチという男がいる。
カラスが何匹も欅に止まって、やかましく鳴いている。その樹の根元のベンチで本を読んでいる私は、そのあまりのやかましさに集中することができない。一体何匹鳴いている?それから私は気づく。カラスは匹、ではない。羽、と数えるのだ。そして見上げても、欅の細かい葉に紛れて、カラスの姿はよく見えない。何羽か数える事は、最初から不可能だった。
集中出来ないので私は、『モンテ・クリスト伯』第三巻・岩波文庫137ページ目にしおりを挟んで、そこから立ち去る事にする。本を閉じると、背表紙には860円+税と書かれてある。岩波文庫は、買うにしては割と高い、と私は感じている。買うに値するだけの価値のある作品ばかりが選ばれている、とも思っている。
私の座っているベンチの空いているところへ、一人老人がやってきた。雨垂れ石をうがつといった、長い年月を経た岩のような皺を持つ男だった。私は、彼と他人なので、特別目配せもせず立ち去ろうとしたのだが、彼はタイミングを計ったかのように、こう言う。
「許せサスケ、これで最後だ」
私は、驚いて老人を見る。私は、今しがたこの老人に頭を覗かれたような気分になった。私がカラスを見て、本当に心に囚われたのは、カラスの数え方でも岩波文庫の価値でもない。間違いなくその台詞だったからだ。思い起こしたのは、カラスを操る男だったからだ。その男が、その言葉を言った。死に際に言った。老人は、あたかも典型的に、ふぉっふぉっふぉ、と笑った。
うちはイタチという男がいる。
彼は、里を戦争の惨禍に巻き込まない為に、戦争を引き起こそうとしている自分の一族を全て見殺しにした男だ。彼は、自分の扱う術にしばしばカラスを用いる。幻を見せる効果の時間を自在に操ることのできる『月読』(ツクヨミ)は、カラスが現われる事でしばしば効力を発揮する事がある。
鳥は得てして頭の良い生きものである。知の象徴として度々フクロウが引用されるが、カラスだって負けてはいない事だろう。一説には、近所のカラスに「おはよう」と声を掛け続けた事で、ある時を境にカラスから骨や虫の死骸といった「差し入れ」を貰うようになった人間もいる、という話もある。
うちはイタチは、一族を背負って立つような存在だったから、そんな彼がカラスを傍らに携えているというのはしっくりくる。
一つ勘違いしてはならないことがある。
一族を皆殺しにしたイタチだが、彼は愛情深い男である。
そんな事より何より、私は老人に頭の中を覗かれた事が心外だった。なぜ?という言葉が頭に浮かんでいた。老人は言う。
「年を取れば、人の頭の中を覗く事も出来るもんだ」
私は、老人が消えるのを見た。風が吹き上げて、欅が大きく揺れた。カラスが一斉に飛び立った。かあ、と鳴いて私の前を横切ったカラスが、その小さな眼球で私を見ているのを私は見た。